A sense of Rita Dialogue with TAKESHI KOBAYASHI

vol.02 枝廣 淳子 さん 後編

小林武史が各界のゲストを招いてさまざまなテーマで語り合う対談連載。第1回目のゲストは環境ジャーナリストの枝廣淳子さんです。
前編で語られた「環境のいま」からより深いところへ話が及んでいく後編をお届けします。

dialogue with Junko Edahiro & Takeshi Kobayashi

「人間が自然の一部だという感覚」と「日本人」

小林:少し違うかもしれないけど、日本の依存というか他力本願みたいなものも角度を変えれば悪いところばかりでもないとも思うわけですよ。それは自然に逆らわないというか、その感覚が奥にあるし、もちろん今年の梅雨の豪雨もそうだし、10年前の東北の地震にしてもそうですけど、そういうことが何十年単位、少なくとも100年単位ぐらいで何度も繰り広げられてきている。ここで達観せざるを得ないというか、おそらく人間の力の限界っていうものがすりこまれてきた民族なんでしょうから。だけど、今ひしひしと、まさに気候危機ということで、このことに関して感じてない人はいないでしょ。これはただ達観しているから、ではだめじゃないかと思う人たちもきっと増えてきていると思う。
人間も自然の一部だということに否定的な人はいないと思うし。僕、スキューバーダイビング大好きなんですけど、アメリカ人や一部ヨーロッパ人なんかはナイフを足元に装備して海に入り海のものをナイフで突ついたりする。「人間様が海の底におりてきてやったぞー」とまで言わないまでも、人間が支配しているというか。比べると日本人はマナーが良いというよりも「お邪魔しにいってるだけ」で、ただ自然というものを感じようとする人が多いですね。だからその感覚をサステナビリティに生かしていけばいいと思うし、東北の震災の時も思い返すと、経済の理屈を超えて利他の気持ちみたいなものがわっと生まれていた。東北の人たちでも、生き残った方々の何人かから、なんのために生きてきて、これからも生きていくのか、そういうお話の中に利他の思いがあったように思います。でも3年、5年って経つと自分では嫌だと思いながら元に戻っちゃうんだよね、ってうお話も聞きましたし。戻ってしまう人たちに問題があるのか、戻してしまうような社会に問題があるのか。今のコロナ禍でも経済の蛇口を開けてること自体に、もちろんコロナに対して甘く見ない方がいいってことはあると思いますが、単純にまた経済、わかるけども、そうやってまたみんなで経済を担いでいかなきゃいけないってことに対して、虚しさ、憂鬱さみたいなことを感じてる人もいると思うんですよね。どう思います?

枝廣:今の話、面白いですね。まず日本人は「人間は自然の一部」という意識。例えば通訳やっていたときによく思ったんですけど、概念がないと通訳ができないんですね。環境関連の国際会議に出てて、アメリカ人がよくいうのは「スチュワードシップ」っていう言葉で。それは、執事とか管財人っていう、お屋敷の面倒をみることを主人から委託されている執事のことをスチュワードっていうんですけれど。キリスト教のバイブルにもあるように「神が人間に自然の世話をするように頼んだ」と。なので人間は地を支配してるっていうのがバイブルにもあるんですけど、人間が自然の世話をする、もしくは人間が自然を支配してるんだから自然を傷つけてもいいというメンタリティ。日本もしくは東洋はそうじゃなくて、日本だけじゃなくて中国古典にも「すべてのものは同じである」という思想がある。あとこれも通訳で訳しづらくて困ったんですけど、例えば「生かされてる」って日本人はよくいうんですよ。英語で「生かされてる」と言おうと思うと「by~」、例えば「神によって生かされてる」そうしないと座りが悪いんですけど、日本人が「生かされてる」っていうのは別に特定の何かに生かされてるって言ってるわけじゃなくて、様々な命の、網の目の中に自分が存在させてもらってる感覚なんですが、それは英語にはできないっていうか、アメリカ人にはわからないっていうのがあって。だから「人間は自然の一部だ」ということは、東洋から西洋にもっと強く発信しなきゃいけないと思うし。
一方、100人以上が死ぬような地震って、統計とると日本では9年に一度起こってるらしいんですけれど、そのぐらい頻繁に災害に見舞われてる国なので、自然は揺らぐし恐ろしいものもある。でもそれを甘受する、受け入れて生きてきたっていう歴史もあって。あんまりそれに対抗しようとか、例えば温暖化の領域でも「ジオエンジニアリング」っていって、温暖化を止められないから、宇宙工学的に操作して温暖化の害を止めようみたいな話が欧米では研究者の間で出てくるんですけれど。そういう工学的に人工的に自然をいじるとかいうのは日本人はあまり好きではないので、日本ではあまりそういう研究の話が出てきません。

「ニューローカル」という感覚

枝廣:あと経済の話で思うのは、私、コロナの状況になってから熱海に移住したんですね。ローカルという生き方をするようになっていて。前にNHK仙台放送局の収録があって、それが「小さいけど新しい経済が生まれてきている」という話で。熱海でも全くそういうことを感じているというか、そういう経済を作ろうと思って今いろいろ動いているので。そういった意味でいうと、特に3.11で大変な思いをした人たちは本当に大事なものが何かということを痛感しているので、今回のコロナでもつながりとか地元の農家を買い支えるとか、そう行った小さい経済がいっぱい出てきているという番組だったんですけれど。新しい経済が今、生まれてきている、コロナの状況がそれを必然にしている。
例えば熱海って観光の街なのでホテルや旅館が休業しちゃうと漁師さんが困るんですね。魚を捕っても売れない、干物作ってる水産業者も売れない。一方で街の人たちは買い物にいって遠くで作ったものを買っているので、生産者と消費者を繋ぐ活動を、熱海の中だけじゃなく首都圏でも売る。そういう生産者と消費者を繋ぐ活動をしていて発見したのは「ありがとうの経済があるんだ」ってことなんです。つなぐ活動をしていると両方からありがとうと言われるんですね。「作ってくれてありがとう」「買ってくれてありがとう」「食べてくれてありがとう」。ありがとうで回る経済があるんだ、というのは今すごく実感していて。それは小さい動きかもしれないし、これまで最大の効率を目指して、細かく分業体制を作ってきたわけですよね。私は生産者じゃないけど、生産する人と一緒に作る。もしくは応援する。生産者もこれまでは誰が食べるかわからなかったけど、こういう人たちがこういう思いで食べてくれるならこうやって作るっていって頑張ってくれてる。コロナが続くとしたら、そういう経済が、ある一定規模の存在感を持たざるを得なくなってくるかなとは思ってます。

小林:今回の熱海は、枝廣さんにとって縁があったって感じなんですよね。

枝廣:これ自分でいうのもあれですが最近活動していて、私は「ニューローカル」という新しい種族の一員じゃないかと思うようになっていて。これまで「ローカル」というと、そこをベースにそこだけの世界でやってる人が多かったけれど、私は世界や日本のいろんな情報を熱海にもってくるし、それで新しい取り組みを熱海でやって、そのリアルな実感を他の地域とか世界にも発信してるし。ローカルと世界のつなぎ役みたいな、行ったり来たりしている。「ニューローカル」って言葉がいいかわからないんですけど、そういう取り組みで、それに賛同してくれる人というかそういう生き方したいんだよって言ってくれる人すごく増えてるので、ちょっと自分が実践というかお試しをやってる感じですかね。

小林:僕らも、クルックフィールズをやり始めて、少し前から木更津市長がオーガニックシティ宣言をするようになって、今、さらにクルックフィールズの外も含めたサステナブルな街づくり、経済作りに複数の人や企業が関心も持ってくれていて。そこに関わる人たちがもうすこし正直でいられるということだったり、それが最終的に「ありがとう」という感謝みたいな、そういう循環が生まれたり。僕はそれを「気持ちのいい」っていうような言い方しますけど、そういう経済のあり方みたいなことに移行できる兆しというのはすごくありますよね。
そういう地方のあり方、僕ら東北で「リボーンアート・フェスティバル」という芸術祭をやっていて、来年が3回目の本祭なので、またそういう動きを石巻の人たちともはじめていくんですけれど。そこに住みながら関わる人もいるし、ときどきそこに、年に何回か行くような感覚も含めて、「ニューローカル」という感覚は、自然観というものにもともと長けている国としても、利他のセンスと言うようなことにも繋がっていく、全体の流れというか繋がりみたいなことを感じることが「利他」ってことに繋がるんだと。

想像することが利他のセンスにつながる

小林:もう一つ利他に関することですが、うなぎのことなんです。中央大学でうなぎを研究している海部健三さんから聞いたことですが、うなぎは海を渡って川に入ってくる、川を登り湖に入っていく、昔は川を登ってきたものが田んぼの中で捕れてたりしたらしいんですけど。米とうなぎといえば、それこそ炊きたてのご飯とうなぎを食べるって言うのは、日本人の食生活の中でも、とびきり素敵なマリアージュだと思ってるんですけど。そういうことも最近になって農業用水とかいろいろと水の使い方が分化されていて、うなぎが入り込めなくなっている。天然うなぎって言ってるけどほとんどの場合はシラスウナギで登ってきたのを河口でガバッとおさえて養殖にするんだけど、いまいち育ちが悪いようなうなぎを、それこそ慈善活動のような感じで湖に放流しましょうみたいな、ちょっと本末転倒な天然うなぎの生まれ方があったりもするらしく。僕はそんな話を聞いてモヤモヤする時に、すごく美味しいうな丼を思うわけです。昔からグアム辺りの海から渡ってきたものが水田や農家とも分断が起こってるんだけど、ものすごくいいマッチングみたいなものが生まれてくることを想像することが、食に関しての利他の方向性みたいなものを生んできたりね。これも海部さんが言っていたことだけど、スーパーで「安心、安全、美味しい、安い」って言うのは、結局人間の「利己的な視点」で見たときの一方的な基準なんだけれど、本当はそういううなぎの生態を知ったり、どうすると美味しいうな丼を食べていけるんだという視点が、まあ美味しいうな丼を食べたいのは利己的に思えるかもしれないけど、そこのイメージを持って想像してみることが、利他のセンスなんじゃないかって。

資料:ウナギレポート 中央大学法学部/ウナギ保全研究ユニット Kaifu Labより

もう一つの事例として、プラスチックのことを思うんです。現状プラスチックは、結局燃やしきれないものが海に流れていく、それが時間をかけて粉々になって、マイクロプラスチックになって、それを海洋生物が吸収して、その生物を僕らがいただくことによって摂取する羽目になっている。本当の意味での「吸収」ってことができていないんだってことに思いを馳せたときに、まだまだ生分解ができる植物由来のプラスチックなんておそらく経済性で言ったら箸にも棒にもかからないんでしょうけれど。でまあ減らすこと、まずはそういう視点に立ってレジ袋をやめていこうよというところから始まって、「いよいよ始まりだしてるんだ」という感覚は僕は持っていて。こうやっていろんなことを想像していく。想像して消化しきれないものを放っておくという姿勢が、目を背けてしまって関係ないっていう姿勢が、自分たちが本当に好きなことや大事なことを傷つけたり奪っていくことにもなるから。僕は象徴的に「美味しいうな丼」の話を出したんですけれど、そういうことはいっぱい思い描けることなんだろうなとは思ってるんですけどね。

枝廣:利他ってなんだろうっていうときに、小林さんがおっしゃったように、つながりに思いをはせる、とか、その人、もしくはその動物、そこに身を置いてみるとか。プラスチックの問題が非常に大きく人々の関心を呼ぶようになったのは、ウミガメの鼻にストローが刺さって、あれはみんな自分のこととして感じたと思うんですね。繋がりに思いをはせるとか、我が身を置くとかそう言った意味で。自分以外のものに思いをはせる時って、対峙するやり方と寄り添うやり方とあると思っていて。多分「利他」っていう時は、対峙して分析して切断してってことじゃなくて寄り添うようなそういう感じなんだろうなと思っていて。
これも余談ですけれど、私が昔から好きな話で、小さい弟と小学生1年ぐらいのお姉ちゃんと歩いていて、弟が転んで泣いたと。その時にお姉ちゃんが何するかと思ったら、泣いてる弟の近くで自分も転んでみせて、転んだまま目を合わせてにっこり笑って立ち上がった。そうしたら弟も立ち上がったっていう話があって。転んでる人を上から見下ろしてああだこうだ言うとか手を引っ張るんじゃなくて、自分も転ぶ、それがいいなと思ってよく覚えてるんですけれど。多分「利他」ってそう言う上から目線とか相手を客観的に分析するとかじゃなくて、思いをはせるってことなんだろうなって。

プラスチックは供給源から吸収源の問題へ

枝廣:プラスチックの話でいうと、一番最初に小林さんがおっしゃった「もともと石油は枯渇する」ってことで言われたけど、今は海がプラでいっぱいになっちゃうってことでプラスチック問題だよねっておっしゃった。それって環境問題の本質のシフトだと思っていて、例えばソースとシンクっていうのがあるんですけど、ソースというのは供給源、シンクは吸収源のことなんです。例えば地球は人間に対していろんなものを供給している供給源、ソースであるし、人間がいらなくなったものを吸収してくれるシンクでもある。地球はほぼ閉鎖系なので、地球の中でその供給源と吸収源が上手に回っていかないとうまくいかない。もともと石油が足りなくなるとか、そういうソースの問題として「供給源が足りなくなる」って話で言われていた。前に「レジ袋をやめよう運動」が起こった時に、それは業界から潰されたことがあるんですけど。その時、消費者団体が「レジ袋やめようキャンペーン」で「石油から作っているので使うのやめましょう」って言った時に協会がなんて言ったかっていうと「レジ袋は石油を精製して行く段階で出てくる要らないもので出来ているので、レジ袋やめたところで石油の消費量は変わりません」って。供給源として考えていたんですね。今は、供給源はあったとしてももう受け入れられない、吸収ができないっていうのが海洋プラの問題だし。温暖化も全く同じ問題で、「化石燃料が足りなくなるからやめましょう」じゃなくて、化石燃料がたとえ十分にあったとしてもCO2の吸収ができなくなってます、っていうのが問題。なので、シンクっていうのがここ数十年の環境問題の大きく変わったことかなと思ってます。
プラの話は、さっき小林さんがおっしゃったように「生分解性のプラができればいいんでしょう?」っていう人もいるんだけど、こないだ、グンター・パウリという人のプラスチックの本を翻訳してなるほどと思ったんですが、海水って塩なので、塩って保存料なんですよね。昔から塩漬けにしたように。土の中で分解するかもしれないけど水の中では分解しない、水の中で分解しても塩があったら分解しない。そう言った意味で、これまで出されたプラごみはほとんど生分解性じゃないし、生分解性としても海の中では分解しないというのは事実です。

小林:植物由来で作ったものでもダメなんですか?

枝廣:そうなんですよ。それも大事なポイントで「バイオプラスチック」って言い方をするんですけど、バイオプラスチックって二つのものをいっしょくたに呼んじゃってるんですね。一つはバイオマスプラスチック。今小林さんがおっしゃった植物由来。植物由来のバイオマスプラスチックは化石燃料を使わないという点で吸収源側の問題に対応できるんですけれど、それは分解するかどうかは関係ないんですね。なので植物で作られた、分解しないプラスチックがたくさんあります。もう一つは「バイオディグレータブル」。生分解性のプラスチック。石油から作っていても生分解性にはなるんですね、そういう技術を使えば。なので、植物で作ってるか作ってないか、生分解するかしないか、実は4種類あって。一番いいのは植物で作って分解するものなんですけど、残念ながら今はまだ少ないし、分解するとしても土の中ではバクテリアがいるから分解するんですけど、プラスチックを分解するバクテリアは海の中にはあまりいないので分解できません、というのが現実です。

小林:海の中で分解できるプラスチックっていうのは存在してないんですか?

枝廣:数週間前に日本のある企業が「開発した」と発表していたので、研究室レベルでは開発されたかもしれないですね。実証実験とかコスト的に見合うのかっていうのが次の話ですけど。まだそういうレベルです。
そういった新しい技術で開発されたものをできるだけコストダウンして使っていきましょうということと。でも私たちが大量に使っているプラをすべてそういうものに変えて行くわけにはいかないので、プラを使う量、もしくはリサイクルされないプラを使う量を減らしていきましょうということと、すでに海の中に存在しているプラスチックは解決しようがないので、それはそれで別の手が必要ですね、という。こないだ海洋学者からきいたのですが、現在の海の中にはクラゲよりもたくさんのマスクがあるらしいですよ。

小林:それはシュールですね。

枝廣:そうです、マスクも必要ですけれどあれもプラですからね。

小林:日本近海のマスクは小さめですかね(笑)。それはともかくプラスチックが全て悪だと言うわけではなく、医療手術などでプラスティックの役割もどんどん進化していると聞いたこともあります。

枝廣:おっしゃるとおりプラスチックって無くすことはできない。例えば医療や衛生関係とかプラがなかったら成り立たないでしょうし。環境で言っても、昔はジュースの瓶がガラスでしたけどあれがプラになることで軽量化して輸送にかかるCO2が大きく削減されている。プラ自体が撲滅すべきものではないんですけど、貴重なプラを、リサイクルできるものはちゃんとしましょう、というのが一つと、もう一つが日本では使い終わってポイポイ捨てる人はそんなにはいないけど、それでも川から流れるプラゴミが非常に多いんですね。熱海で活動してる話をしたのでついでに、熱海の市内を流れて熱海港に流れ込んでる川が3本あって、その河口で網を張って川から流れてくるプラごみをキャッチしよう、という取り組みを始めています。それこそうなぎじゃないけど魚の遡上を邪魔しちゃいけないのでまずは水深1メートルぐらい。上を漂って流れてくるプラをキャッチする。それとビーチクリーン、海にあるプラごみが打ち上げられるので、海の中のプラごみを回収する手助けにはなるのでそういうこともやっていく。そういうことを組み合わせていかないといけないでしょうね。

小林:なるほど。やることたくさんありますね。

枝廣:そうですね。

「環境問題を解決する」というよりも
「大事なつながりを取り戻す」ということ

小林:最後に、さっきも100年後まで自分たちが生きてるわけじゃないしっていう人たちが多い中で、なんで環境問題、サステナビリティに向かっていって、通訳者としての見入りを減らしてでも環境活動等に向かわれたのかお聞きしてもいいですか?

枝廣:よく「なんで環境活動はじめたんですか?」って聞かれて、劇的な体験があったわけじゃないんですけど。遡ると私、京都で生まれて、四歳の時に宮城県の田舎に引っ越して。野山をかけめぐる野生児生活をしていたんですが、そのときに大地との繋がりというと大げさだけど、そういう確かさを多分子供心に感じたんですよね。自分のお気に入りの場所があって、毎年春になるとそこにふきのとうが出るとか。そういう自然の中で遊んでいて、自然は怖い面もあるけど確かなもの、自分は繋がっているという感覚が多分あって。大きくなるまで忘れてたんですけど、こういう活動始めてみるとそこがスタートポイント、源泉かなと思っています。あとは、今はより広くサステナビリティとか地方創生とかいうんだけど、大学院の時にカウンセリングの勉強をしていて。臨床心理学、カウンセラーになりたくて勉強してたんですけど、その時すごく思ったのは大事なものとの繋がりが切れると人はたいへんにになっちゃうんだなってことだったんですね。本当の自分と外から期待されてる自分との繋がりが切れちゃうとメンタルが大変になったり、そういうのをたくさん見ていて「繋がり」っていうのが自分にとってキーワード。だから地球と自分との繋がりが切れたから環境問題が起こってると思っていて。私は環境問題を解決したいというよりも、大事な繋がりを思い出す、とりもどす、それがその人にとっても社会や地球にとっても絶対よいことだって信念があって、繋がりをとりもどすお手伝いをやってきた、それがたまたま「環境」という分野だったと思ってます。
ずっとやってきて思うのは、この活動はもともとマイナスからスタートしている。環境問題に関しては人々の意識、行動にしても。だからだんだんいい方向に動いている実感が感じられるので、やめようと思ったことはないし、やりがいあって面白いなと思ってます。大げさな言い方になるけれど、もう少し時間軸を長くすると人間の進化というか意識の広がりに立ち会っている。昔は男性にしか選挙権がなくて女性には参政権がなかった。それはおかしいよねってことで、少なくとも形の上では男女平等になってる。その次にパラリンピックとか含めて障害者というのが別にされてるのはおかしいよねって話になって。それからLGBTが入ってきて。同じだよねって意識の広がりの先に動物福祉、アニマルウェルフェアもあると思っていて。日本は残念ながらまだですけれど欧米とか動物大事にするとかお肉を食べないとか、そういう人たちは、倫理的に頭で思うってよりも意識の広がりの先にあるのかなと。その先に、同時でもいいんだけど、未来世代も同じように考えられるような、そういう風に人間の意識が進化していくといいんだろうし。そのために「リタフェス」もそうかもしれないけど、どういう補助線を引くとよいのかなって思っていて。放っておいたらそういう意識の広がりを作れない人たちも補助線があることで意識が広がっていくことってすごくあると思っていて。今はその補助線の引き方をいろいろ考えて試行錯誤している。ローカルで活動しているのもその一つかなと。自分の活動についてはそんな感じで思ってます。

小林:補助線の引き方?

枝廣:補助線を引くと、例えば算数とか数学、図形の問題を解く時に、それだけ眺めていても解はわからないんだけど、有効な補助線を引くと「ああ、こういう風になっていたのか」って解がわかる。例えば「利他」ってこととか、意識のひろがりとか、プラスチック問題の本質とか、補助線のあり方で、何かを見せたりとか何かを感じてもらったりすると「あ、そうか」と繋がるのかなっていう、その補助線ですね。

今は不調でも、進むべき方向はシンプルでクリアなはず

小林:さっき枝廣さんがカウンセリングの勉強してたって話を初めて聞きましたけど、その視点には自然に含まれる命っていうものを含んで、それらのバランスだったり、今までのやり方では傷んでしまうものを回復させたり響き合ったりすることに向かわせていくのに、耳を澄ましたり眼を凝らしたりしながら、発するものを受け取ってカウンセリングをやってたんだというイメージを勝手に素晴らしいなと感じつつ、それは枝廣さんらしいなとも思ったんですけど。補助線って言葉、僕使ったことないんですけど、「そこに補助線を引いて」っていう。それはいろんな役割をする補助線なんですよね。整理したり、物事の本質をあえて区切ってみたりとか。俯瞰で見るための補助線っていうのもあるかもしれないし。なるほど、と思います。
何に呼ばれて生きてらっしゃるっていう感覚って持ったことってありません? 何かに呼ばれっていうか、自分の運命とか使命みたいなもの。もちろん「好きだから」っていうのはあるし。僕は進化ということがあると思っていて、この進化の先がディストピアじゃあまりにもそれは馬鹿馬鹿しい。動物としての人間が知恵をつけて奪い合うってことだけが肥大していくのは、何というか、あまりにも美しくない。そこが人間の本性だって言ってディストピアに向かうのは愚かしいでしょう。まだまだ圧倒的にわからないことがあって、宇宙スケールに至るまでの、進化の道程なのではないかと思えるんですね。少なくとも、ここまでいろんなことを作ったり考えるようになってきたってことはまだいける道がある。その道程の中で「すべてのことが繋がっている」ということは思いますね。

枝廣:進んでいく方向性はシンプルだと思っていて、それまで物欲とか資本主義とか利益至上主義とか、目を雲らされてきて切り落としてきた、もしくは見ないできたもの。そういう目を曇らせてきたものをちゃんと晴らして、今おっしゃった「すべてのものが繋がっている」。すべてものが繋がって調和とバランスが取れていれば地球も人間も、多分幸せにずっと続くと思っていて。今はそれが不調になってる。それはエゴとか物欲とかコマーシャルとかいろんな原因は挙げられるけど、だけど正しい方向、あるべき方向はすごくシンプルでクリアなので、その邪魔をしているものを少しずつどかしていくか、もしくは目を閉じてる人の目をどうやって開いていってもらうか、そんなことかなと思ってます。

小林:若い人たちの為にも最後に一つだけ。枝廣さんが最初に環境問題に関わった時に今みたいな感覚が備わっていたのか、それともやりながら自分の身についてきたもの、わかってきたものなのか。

枝廣:やりながらですね。環境活動を始めたときに、多くの人は、ある専門を持って入るんですけど、私は「素人のプロです」って言ってたぐらい、何か専門を持ってというよりも、専門性に入ってしまったら見えなくなるものがあるという意識はその時からありました。だから専門を持たない、全部合わせて考えたいんですっていうスタンスは最初から持っていたので。ただ、全体の繋がりが大事っていうセンスは最初からありつつ、向かってる方向はシンプルだよね、とか「こういうことじゃない?」っていう風に確信持って思うようになったのは活動している中ですね。活動を始めて5年とか10年とか。だんだんその確信が強くなって、自分がやっていくべきことのイメージもすべてそこから出てきているので、今は確信犯です。

枝廣さんとの対談を終えて

最初に紹介していただいたのは坂本龍一さんだったと思いますが、環境問題に正面から真摯な態度で取り組んでいるまっすぐなエネルギーを驚きをもってみていました。そこから何度かお会いしながら、ご活躍が複数のシーンにどんどん広がっていくように感じていました。まるで旅のシーンが増えていくように。
だけどそこには単なるビジョンや概念だけではなくて日常とつながる温かさや優しさがあります。
そして枝廣さんの好奇心あふれる魅力が一貫して貫かれています。さらにこれからは「確信犯」として未来へ影響を与え続けていくのだと思います。

小林 武史

PROFILE枝廣 淳子

大学院大学至善館教授
幸せ経済社会研究所所長

『不都合な真実』(アル・ゴア氏著)の翻訳をはじめ、環境・エネルギー問題に関する講演、執筆、企業のCSRコンサルティングや異業種勉強会等の活動を通じて、地球環境の現状や国内外の動きを発信。持続可能な未来に向けて新しい経済や社会のあり方、幸福度、レジリエンス(しなやかな強さ)を高めるための考え方や事例を研究。「伝えること」で変化を創り、「つながり」と「対話」でしなやかに強く、幸せな未来の共創をめざす。

心理学をもとにしたビジョンづくりやセルフマネジメント術でひとり一人の自己実現をお手伝いするとともに、システム思考やシナリオプランニングを生かした合意形成に向けての場づくり・ファシリテーターを、企業や自治体で数多く務める。教育機関で次世代の育成に力を注ぐとともに、島根県海士町や熊本県南小国町、北海道下川町等、意志ある未来を描く地方創生と地元経済を創りなおすプロジェクトに、アドバイザーとしてかかわっている。